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みなさん、初めまして!
簡単な自己紹介と私がセラピストになった理由をお伝えします。
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子どもの頃 |
私は小学校入学の頃から胃腸が弱く、年に数回、吐血をしていました。一度吐血をすると2日間は続き、絶食状態で寝込んでしまいます。体重も2キロぐらい減ります。吐血も苦しいのですが、4日目ぐらいから少しずつ回復してくると、寂しさと退屈さが一緒に襲ってきます。一人で布団の中にいて、ずっと天井ばかりを見ていると、ものすごく寂しくなるときがありました。
両親は最初、とても心配しましたが、町医者から「これは体質だから、とにかく絶食して様子を見るしかない」と言われました。実際、その通りで4〜5日たてば元気になりました。何度目かになると、母親もいつものこととして、特に心配することもなくなったように思います。だから、仕事で忙しい母親は、必要がないと私のところに来てくれません。そんな時、用もないのに、ただ寂しさを紛らわすために、大声で母親を枕元まで呼んだことを覚えています。
成長と共に、吐血する頻度は少なくなっていきましたが、それでも20歳くらいまで、年に1度は吐血をしていました。今、こうやって元気に仕事ができることを本当に感謝しています。子ども時代の、このような体験は何らかの形で私の自己形成に影響を及ぼしていると思います。いつも、漠然と寂しさを感じていたり、小さい頃から友だちと手をつなぐのが大好きで、大人になってからも自然と他人の肩や背中に触れてしまったりすることもその現れのような気がします。
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大学生になって |
大学生の頃は社会問題に目覚め、反差別・反戦などの運動に没頭していきました。「普遍的人間解放」というスローガンにとても惹かれました。不公平で矛盾に満ちた社会を変えたい、そのために自分がどう生きるのかという問題と、真剣に向き合ったつもりでした。また、障害を持つ子ども達と遊ぶボランティアや、施設を出て地域で自立生活を営む障害者の介助もしていました。
この運動の中で、様々な人々に出会い、かけがえのない経験をしてきました。それは私の一生の財産になっていると思います。しかし、ある時点から、私は政治や運動についての見方が180度変わりました。体を張って、命がけで闘うことがすべてではないことに気づきました。生活者としての視点・感覚が決定的に欠落していました。
結局、大学を中退し、アルバイトをしたお金で、韓国ソウルに半年間の語学留学をしました。もともと、英文学科だった私は、再び語学学習の楽しさを思い出しました。朝から晩まで韓国語(朝鮮語)を学び、韓国で出会った友人たちと遊び、語り合うことが自分への最高のプレゼントでした。私にとって語学を通じて繋がる韓国・朝鮮、そこで出会う人々との関係はずっと続くだろうと感じています。
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セラピストになった理由 |
さて、こんな私がセラピストになりたいと思ったのは何故でしょう?
それは、私自身が心理療法に出会って自分の人生が全く変わったからです。
留学を終えた私は、ある知的障害者施設で働き始めました。施設長に就任してから責任の重圧をひしひと感じ、自分の経験不足、能力不足について悩み始めました。最初は本を読んだり、上司に相談したりすることで乗り越えられると思っていました。しかし、3年目に入り、決定的に今の自分を否定し責め始めました。それでも管理職として責任ある立場にいる自分が、すべてを放棄することも許されるはずがないと思っていました。引くことも進むこともできず、自分を否定し続ける苦しさ。この出口をなんとかして探したいと思い、藁をもすがる思いで受けた心理療法のセミナーが私の人生を変えました。
一つひとつのワークが、私にとってはどれも大きな効果がありました。(この体験は「心理療法について」に載せています。)不必要に自分を苦しめることがなくなりました。本当の欲求が分かりました。そして、「これからは、一番に家族を大切にして、本当に自分がしたいことを自分の力でやってみよう」と思い、退職という決断ができました。
退職後も、心理療法を学び続け、セミナーのアシスタントをしながら「私が本当にしたいこと」を模索していた私は、ある時、天から降ってきたように、「自分の経験を活かし、そして人生の苦難に立ち向かっている人のサポートをしたいのだ」と分かりました。
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今のわたし |
今、私は自分の信じる道を歩むことで、素晴らしいクライアントさんとの出会いを感じています。学び続け、魂の成長を続けることが、セラピストとして働く使命であり、私にできるすべてであると感じています。
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私が受けた心理療法のセミナーは矢野惣一先生が主催する「問題解決セラピスト養成講座」です。
この場を借りて、矢野先生に深くお礼を申し上げます。
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